Globe Samponista Diary~世界各国お散歩日記~

旅のスタイルはふらっと、気ままに。60を越える国々を旅した記録。ひとり旅やふたり旅、ときどきグループ旅行。

【100日旅36日目】訪れるなら予習は必須、忘れられない街、サラエボ

12月9日 Day 36

 

サラエボといえば、第一次世界大戦勃発のきっかけとなったサラエボ事件を思い出します。 それに加えて、ボスニア紛争の記憶が新しく、当時セルビア側から徹底的に銃撃を受けた場所、通称スナイパー通りは広く知られています。

当時、動くものは全て狙撃されたという通りです。今でも銃弾の跡が生々しく残るビルの数々。

 

しかし、トラムに乗ってスナイパー通りを進むさなか、私は何を思ったかトラムの中から片側だけを一生懸命見ており、それがなんとセルビア側!

銃弾を受けたのはもちろんボスニア側なので見るかるはずもありません。とんだ見当違い。

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予約をしていた11時からのフリーツアーに時間が間に合わなそうになってしまったので、慌ててトラムに乗って旧市街へ戻りました。

 

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11時からのフリーウォーキングツアーでは旧市街を1時間くらいかけて歩いてまわりました。実際に戦争を体験したガイドさんから話を聞くのは辛いものだけどとても意味あるものです。

幼いころに家族や友人や町の人々を目の前で殺された彼女に簡単に歩み寄ろうとか、許してあげようとか、そういう気持ちには到底なれません。ただ、今後の人生で彼らとはかかわらないこと、それが彼女にできる精一杯のことなのです。極めて近い場所にいる人々とわかりあえない悲しさは経験した人にしかわからないことです。

 

ツアーが終わり、ちょうどお昼になったので、ガイドさんおすすめのBUREKを試してみました。ビュレックとはパイのような食べ物で中にお肉やホウレン草などが入っています。

甘いものも入っているみたいなのですが、ガイドさんのおすすめはお肉だったので、私はひき肉をトライ。パイみたいでなかなか美味しかったです♪ 

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そして、ランチ後はしばしウィンドーショッピング。

旧市街にあるお店。

 

イスラムっぽい可愛いクッションがたくさん! 

 

そして、午後は別のツアーに申し込みました。

トンネルツアーと呼ばれるツアーです。

このトンネルはサラエボセルビア軍に完全に包囲された際に、地元の人々が秘密裏にすべて手作りで掘ったトンネルで、ここからクロアチアからの支援物資を受け取っていたそうです。

今回案内してくれたガイド兼ドライバーさんはまだ40代半ば。

ボスニア紛争当時は警察として働いていたそうです。そして何度もこのトンネルを通ったそうで、トラウマになっているとのこと。

でも、こうして目を背けたい場所へ観光客を案内するようになったのは、実際に紛争を経験した自分に伝えられることがあるかもしれない、と思ったからというのと、ボスニアは失業率が高く、生きていくために仕事が必要だからだそうです。

彼には妻子がありますが、彼自身現在無職。

このガイドはあくまでも臨時で依頼を受けたときにやるんだそうです。

得た収入のうち何パーセントが彼に入るかは分かりませんが、それでも夏休みに家族旅行に連れて行ってあげるだけの収入はなく、毎年息子をがっかりさせてしまっているのだと教えてくれました。 

 

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戦場を知らない私たちは、当時の様子をメディアから知ることしかできません。

しかし、それには大変注意が必要で、当時西側諸国はセルビアの蛮行のみを大きく取り上げ、背後にある複雑な民族対立の闇を伝えてはいませんでした。

セルビア人がボスニアで行った大量虐殺は許されるべきことではありません。

しかし、外野の私たちはただそれを鵜呑みにして善悪を判断してよいものだろうかと疑問に思っています。

ガイドさんは、戦争前のボスニアムスリムも正教系もクリスチャンもみんな仲良く暮らしていたし、隣人が違う宗教なんて当たり前、異なる宗教の者同士の結婚すら珍しいことではなく、それが彼らの誇りだったと語ってくれました。

実際に、当時、ムスリムの人々への蛮行を強要され、頑なに拒否したセルビア人が殺害され見世物にされた事例もあり、 また、紛争によって引き裂かれそうになりながらも離れることが出来なかった恋人同士が二人で抱き合ったまま死んでいったという話もあります。

胸が張り裂けんばかりの話でした。 紛争で目の前で大切な家族や友人を残虐に殺された人が、そのかたきに対して憎しみが消えないのは想像に難くありません。

ガイドさんは好きか嫌いかにかかわらず、相手をリスペクトすることが大切だと教えてくれました、、。 あぁ、そうか、と思いました。

彼にはセルビア人を許すことは生涯できないだろうし、無理もない。

つまり大嫌いなセルビア人だけど、彼らには彼らの人生がある。

自分とは決して交わらない人生が。

リスペクトする。

すごく心に突き刺さる言葉でした。

気温はおそらく0度前後。小雪が舞う中の見学で寒くて震えていたけど、この寒さで助けられたことが一つあります。

ガイドさんの話に、こらえきれずに流れた涙と赤くなった私の鼻。

寒さのせいだと思ってもらえました。 

 

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迫撃砲の砲弾による死者を出した爆発の跡を、赤い樹脂で埋めて、これが花のように見えることからサラエボのバラと呼ばれています。

ここで起きたことを忘れないために。。

 

トンネルツアーを終えて旧市街に戻り、宿に戻る前にもう一つ行きたいところがありました。

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スレブレニツァの虐殺についての展示会です。

 

午前中に参加したフリーツアーのガイドさんのススメもあって行ってみることにしました。

スレブレニツァの虐殺とは1995年7月、セルビア人勢力が、国際連合の指定する「安全地帯」であったスレブレニツァに侵攻をはじめ、スレブレニツァに居住していたボシュニャク人の男性すべてを絶滅の対象とし、8000人以上が組織的に殺害される、「スレブレニツァの虐殺」が引き起こされた。この大量虐殺は後に、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷および国際司法裁判所によってジェノサイドと認定されています。当時の写真が数多く展示されており、その中心部でドキュメンタリームービーが上映されていたのですが、それが一生忘れられない記憶となりました。

当時、ボスニャク人は無条件に男性全員が殺されました。

一列に並ばされ、背後から背中に銃撃を受けて殺されたり、撲殺されたりしたのです。エキシビションでは信じられない、目を覆いたくなる事実が淡々と語られていました。 また、行方不明になった夫の生存を信じてけなげに生きていた女性が、戦場で見つかった服の鑑定の結果、夫の物だと知って愕然と膝を落とす姿など。

これのムービーを見学しているのがあまりにつらくて、嗚咽を出して泣いてしまいそうだったので上映途中でしたが退出するしかありませんでした。

しかし、おそらく地元の男性だと思うのですが、少し後頭部が薄くなった男性が、少し背中を丸めて静かに、その映画に見入っている後姿が目に止まりました。

4,5人ほどです。

後姿だけだったので顔は見ていません。

しかし、その背中から漂う悲しみや怒り、切なさを感じることができ、この光景こそが100日の旅を終えてからも最も強烈に印象に残って離れないのです。

あのおじさんたちの背中は絶対に忘れません。

そして、平和な世界が訪れることを願ってやみません。

とてつもなく辛かったけれど、とてもいい経験でした。